◎おわりに

・頓挫した製糸資料館構想。
昭和59年(1984)、南陽文化懇話会が中心になって製糸業の遺産を保存すべく郷土資料館構想建設の動き。→市長交代(昭和61年、新山市長から大竹市長へ)や吉野石膏への寄附要請がうまくゆかなかったことなどで頓挫。
・青苧開発の副産物としての「夕鶴の里」
平成元年(1989)、南陽市青苧製品開発推進協議会設立。→平成8年、解散。(平成14年、南陽市古代織の伝統を守る会結成。今年12月、青苧取組み30年記念シンポジウム開催予定。ただしその後の存続については不透明)青苧製品開発については当初の目論見(中山間地域振興)が外れたが、その過程の副産物が夕鶴の里(多勢吉郎次家蔵活用)。民話口演や機織り体験などで、かつての資料館構想凌駕の成果。
多勢丸中邸が建設当初のままで現存することは、ある意味奇跡。この奇跡、この僥倖を今後どう活かすか。官民挙げての対策対応が求められている! まずその凄さを認識することから始まる。
(9月22日 13:30〜16:30 【現地研修】漆山地区の歴史遺産をめぐる 島貫満先生より)
・北条郷の青苧栽培について
苧栽培が盛んだったのは小滝村、池黒村、鍋田村、漆山村、荻村で、その他金山村、椚塚村 《現在の南陽市一帯が北条郷と呼ばれた江戸時代の始め頃(慶長末頃)、青、三間通村においても生産されていたことが、当時作成された「邑鑑」によってわかります。
古来青苧は衣料原料として自給自足的に栽培されていたとも考えられますが、本格的に生産されるようになったのは慶長3年(1598) 直江兼続が越後から置賜に移ってからです。越後において上杉謙信が力を貯えたのは、金山開発もさることながら青苧生産によるところが大きかったと言われています。上杉藩の越後からの移封は、会津と置賜への青苧生産のノウハウ移動でもあったことは『小千谷縮年表』に「慶長3年上杉景勝、春日山城主55万 石から会津若松に移される。越後に於ける貴子生産は領主的保護を失う。後日『苧は上杉公に随きて会津へ行きたり』と云われた。」とあることからも知ることができます。やがてこの地における青苧生産は、「實に奥州産優等繊維は植物繊維中の精粋にして、世界中最良の品なりと称するも過言にあらず」(『苧麻』䑓湾總督府内南洋協曾壷湾支部刊)と評されるまでになりました,米沢織は、越後以来の貴苧製品化の伝統に立脚したものといえます,
生産された貴苧は一部は「役苧(蔵苧)」として上納されますが、「売苧(商人苧)」として商人の手を通して多くは上方へ、また越後へと運ばれました,とりわけ北条郷では「商人苧」が発達し、多くの貴苧商人が活躍しました。明治初期製糸産業をこの地に移入しその中核を担ったのは、その中のひとり多勢吉兵衛の 子孫でした。》
(『青苧フェスティバル』パンフレットより 平成16年)
・『漆山の製糸業の歴史』
《当時全国的にエキストラ格の生糸をまとまって生産していた地域をみると大別して三つあげられる。いわゆる山形県米沢地方(羽前エキストラ)、長野県北部の松代地方(信州エキストラ)、愛知県から三重県、京都府を経て島根県、愛媛県に至る関西地方(関西エキストラ)の三地域がエキストラ格の生糸を生産し海 外でも好評であった。
これらの地域におけるエキストラ格生糸の特徴を要約してみると、山形県の羽前糸は繭質がよいこと、製糸法は煮繭煮渡し式、沈繰の技術を採用し、繰糸工女の養成が的確であったことなどがあげられ、これに封し長野県松代糸や関西糸は繭質、ことに解舒が優れ、さらに繰糸工女の養成が優れていたなどがあげられる が、信州、関西の製糸家のはとんどは沈繰技術は採用していなかった。
本県の特殊技術ともいえるこの繭煮渡し式沈繰製糸法の先駆をつけた人は置場都漆山村の豪農多勢亀五郎であるといわれている。
彼は明治五(1972) 年、上州富岡に行き政府の設立した富岡製糸場の洋式製糸機械による製糸法を見学し、これからの器械製糸のあり方について、いたく感激し、次いで前橋の製糸の名望家小栗久兵衛氏宅を訪れ、彼の発明に依る沈繰法を伝授され、製糸器械を購入し、同六年七月帰郷して三窓の小工場を設立して沈繰法による製糸を行った といわれるが、多勢吉郎次や布施長兵衛、多勢長兵衛らの各氏が先覚者であるとの説もある。》
(おりはたの里づくり推進会議 歴史部会より 平成6年)
多勢金上製糸株式会社の倒産《 昭和三十年十二月二十三日突如として南陽市漆山の多勢金上製糸株式会社(代表者多勢亀五郎)が会社の解散を宣言した。このことは製糸業界のみならず県内の蚕糸業界に大きな動揺を与えたものである。
既に述べたように多勢金上製糸は明治六年の創業で、明治前期には早くも洋式製糸の導入について群馬県富岡に設立された官立富岡製糸所や前橋の器械製糸を視察して、いち早く器械製糸を導入したほか、沈繰法技術を取入れて製糸の近代化を推進し「羽前エキストラ」と謳われた優良生糸の生産に力を入れ、本県製糸業 発展の先進的役割を果たしてきたことは何人も認めるところであった。
大戦後は二五四台の中堅器械製糸業として復元し業務を続けたが、昭和二十八年の糸価不況以後は経営不振が続き、これに昭和三十年前半からは社内の労働争議が続発し、最終的には昭和三十一年四月三十日県地方労働委員会の斡旋により会社解散に関する清算人を選定調印し幕を閉じた。
多勢金上製糸の倒産で大きな被害を蒙ったのは養蚕農家を代表する山形県養蚕連であった。同社との繭売買に関する団体協約を行った繭数量は約一万二千打で、その繭代不払残額は一九五万円余り集荷指導費約三〇九万円計五〇四万円に達した。
この未払額は当然県養蚕連の負担として関係養蚕農家に支払われたが、その後遺症として県養蚕連は債権整備団体に指定されて運営することになった。》
富豪、多勢亀五郎(『翠松の丘 宮内高校人脈物語』結城亮一より 平成19年)
《 二代目亀五郎は日本画を好み、川端龍子や横山大観の絵を集めた。昭和三年には川端龍子の後援会長を引き受け、日本橋三越の画廊で個展を三回開かせ、三回とも全部赤札にして育て上げた。横山大観の絵は、川端から目ききをしてもらって買った。
昭和六年に大観が屏風(びょうぶ)絵の名作「紅葉」を描いたとき、木の下の流水を表現するのに当時まだあまり使われていなかった描画材料のプラチナ泥を使ったため、画壇や画商は工芸品とみなして認めなかったのを、亀五郎が二万四千円で買い取ったので大観はいたく感激し、お抱え表具師を連れて漆山まで訪ね てきたのだった。公務員の月給が五十円のころだから、二万四千円といえばざっとその五百倍にあたり、今の金額に直せば七千万円くらいになるだろうか。
後年、多勢家が左翼の教唆による暴力的労働争議によって倒産に追いこまれたとき、多くの書画骨董品とともに「紅葉」も処分された。その後、島根県の足立美術館で問題の屏風絵が所蔵されているのがわかった。同美術館によると、その作品は、倒産した東洋バルブの創業者・北沢国男氏の収集品「北沢コレクション」 から昭和五十四年に購入したとのこと。それより以前の持ち主はわからず、これが多勢家旧蔵の作品であったという可能性も捨て切れない。
二代目亀五郎は自分のことだけでなく周囲にもいろいろと貢献した。近辺の町村にはアメリカ製のダッジ消防車を寄付したり、地元の優秀な男子学生に返済無用の育英資金を出したり、若い政治家に資金提供をしたりした。特に米沢市出身の県会議員木村武雄を代議士にするため努力をし、昭和十一年に初当選させて国会 に送りだした。》 (『漆山の製糸業の歴史』より)
・『不忍界隈』
《昭和の初め頃、羽前宮内に多勢亀五郎という紀文大尽のような男が出た。まだ二十代の若者であったが、一世一代の豪華な遊びを日夜くりかえしていた。その遊びの中の一つにこんなのがある。ちょうど六代目菊五郎が全盛の頃で、久方振りの菊吉の顔合わせ、歌舞伎座で御所の五郎蔵を上演するという前景気が新聞紙上を 賑わした。御所の五郎蔵などという芝居は大した芝居ではないが、その頃仲の悪かった菊吉の久方振りの顔合わせというそのことだけで、いやが上にも人気が持ち上がったのである。したがって、街の人気は菊か吉かでまっ二つに分かれ、どうやら芸風の上では吉右衛門に人気があったが、踊りは六代目菊五郎が不世出の 名手だから、花街あたりでは菊五郎のほうがやや人気が優っていた。しかも立て龍る場所は、菊五郎が歌舞伎座、吉右衛門が市村座というのだから、菊のほうが万事派手である。
その菊吉で御所の五郎蔵を上演。むろん役柄からして菊の五郎蔵、吉の星影土右衛門となるわけだが、この芝居をさらに騒然とさせたことは、五郎蔵が土右衛門と出会う花道で見せる着物に、横山大観が墨絵の雲龍図を描くという添え物が出現したことによる。それは何も、大観が六代目を贔屓にしたためではない。多勢亀五郎という羽前国宮内町のお大尽が、ある夜新橋の料亭に寵愛する名妓のために六代目を呼び、そこで思いついたのが大観描く墨絵の雲龍図というわけで、名妓の機嫌をとる一心から大観を酒席に呼びつけたのだ。
今はこうした馬鹿なケースもないが、明治、大正、昭和の初めまでの芸術家なるものの風習といえば大方こんなところで、貴族、権力、財閥に奉仕する幇間性は、遠く江戸期から伝習されてd八きたものである。一流作家は白足袋をはき、仙台平の袴に縫紋の羽織を着て、常に白扇を持ち、乞われれば唄い、あるいは踊 りを舞うことをもって一流芸術家のたしなみとしていたのだから、一流作家になればなるほどお座敷における一芸の心得を条件としたものである。
水戸生まれの気骨ある大観にしてからも、この風習をさけることは出来るものでない。新橋の名妓を寵愛する亀五郎旦那の命によって、大観は六代目のために御所五郎蔵の着物に墨絵の雲龍を描くことになった。そして街の話題は、そのことがさらにプラスとなっていっそう騒然とした。
ただこの場合、五郎蔵と土右衛門が両花道から四人ずつの子分を連れて現われ、花道の七三で一人ずつせりふのつらねを言って見得を切る時、五郎蔵の見得は、能を見せるためにうしろ向きに格好をつけることになる。そして観客は、六代目の芸や、せりふやそのカツコよさよりも、観客に睨みを効かす雲龍に向かって声 がかかり拍手が湧くという趣向で、菊吉合同もその瞬間だけは龍に食われてしまったほどである。
その豪華極まる芝居を東の枡席を買い切って、晶辰の芸妓やその一族と大観一党と自らの取引先の顧客を連ね、料亭の女将、歌妓、舞妓の数々をお花畑のょうに並べたとしたら、今なら新聞社の餌食になるところだが、昔の人々は舞台と桟敷を七三に見ながら、歌舞伎とはかくも華かなものかとほほ笑ましく眺めていたも のである。
さてそれはそれとして、終れば一同と共に料亭に引き揚げ、六代目や播磨屋吉右衛門らを犒(ねぎら)う酒宴が夜半まで続く。そうまでしても多勢家の金は使い切れず、ある時は大観、玉堂、龍子らを故郷山形の赤湯温泉に長逗留させ、知事、警察部長、代議士、県 会議長、警察署長らを呼びつけ毎夜酒宴を張り、大観、玉堂、龍子らに命じては一々色紙や扇面を描かせて座興にしていたのである。政治家の中では、青年代議士の木村武雄、後の元帥を大の贔屓にしていて、選挙の度に、その当時の金で千円という大金を呉れていたから、多勢家が後年落傀してからというもの、彼の子 弟などを武雄もかなり世話して恩義に報いていたらしい。》
(木村東介より 昭和51年)
・多勢組
(昭 和61年、「宮内の歴史を聞こう」と題する宮内青年祭で布施喜一郎さんが「多勢社と羽前エキストラ」と題して語られた。布施さんは、多勢社オリジナルメンバー8名のひとり、布施長兵衛の孫。その時の資料に「多勢社規約」原本のコピーと、明治17年、メンバーが15名になったときの集合写真の名前一覧。この 写真、『南陽市史 下』にありました。)
明治28年(1895)多勢亀五郎脱退(生産規模拡大に伴い、共同出荷より単独出荷の方が効率よく収益性も高いと判断(伊田))明治31年(1898)解散(個々の製糸工場による共同出荷が困難となる(伊田))
(「近代における優等糸生産の展開と製糸技術」伊田吉春 より平成25年)
以上
⑤海老名家
<海老名家(岩城屋)>
「先祖の遺産は消費しない」を家訓とする岩城屋は江戸時代後半から小間物や雑貨、明治の頃から金融宅地業に切り替えて更に大きく飛躍しました。海老名家六代目当主久松は京都との交流を盛んにして家運中興の業績をあげ、この間、多くの文人墨客と交わりました。幕末から明治にかけては頼山陽や離れ座敷の茶席に「団雪庵」と名付けた支峯などが訪れています。長井の店屋造りの典型的な建物で店蔵は江戸時代のもので店と母屋は大正6年の中道大火で類焼したが、岩城屋の伝統を守り類焼前とまったく同じ形に新築しました。入口の格子戸と岩城屋の名の入った小間屋門の「のれん」、店の格子窓とその上のキリヨケと呼ばれる丸く反った小屋根、雨風から漆喰のアオリ戸や窓を守る為、店蔵の窓につけた出窓風の「ワサヤ」など、雪国の風土と長井が商業都市として栄えた頃の面影を残しています。
⑥永仁の古鐘
伊達政宗の生母である義姫(山形城の城主最上義光の妹)が懐妊祈願に訪れた場所としても有名で、それが縁で政宗は天正19年(1591)に古鐘を奉納しています。伝承によると義姫は永禄8年(1565)に伊達輝宗の正室に迎え入れられ、その後、亀岡文殊堂の長海上人に懐妊祈願の依頼を行いました。長海上人が湯殿山で懐妊祈願を行い幣束を御神体(湯殿山の御神体から湧き出る温泉)浸し義姫に届けると、ある晩、湯殿大神の化身と思われる老僧が義姫の霊夢に出現し「義姫の胎内に宿を借りたい」との御告げを受けました。輝宗と相談の上その願いを受け入れると、不思議と懐妊した事から「幣束」に因み「梵天丸(政宗の幼名)」と名付けたそうです。
亀岡文殊堂の古鐘は鎌倉時代後期の永仁4年(1296)に藤原正頼が鋳造したもので、長く伊達家の菩提寺であった資福寺にありましたが、天正19年(1591)に政宗が舘山城から岩出山城(宮城県大崎市岩出山町)に移封になった際、資福寺も随行した為、亀岡文殊堂に奉納されたと伝えられています。
現地案内板(高畠町観光協会・亀岡文殊略縁起・大聖寺)より
⑦上小松村之絵図(川西町)
享和元年は西暦1801年、伊能忠敬が蝦夷地を測量したのはその前年であるが、欧米列強の船がしきりに日本の近海に出没し始めた時期である。
本原画は上小松蔵田國順家の所蔵である。旧村の時代には同様のものが高橋嘉吉家・小林覚兵衛両家に所蔵されたと伝えられ、上小松以外の図面もそれぞれ複製が何部か作成された。このときの上小松村の村役は肝煎金子十左衛門・金子孝七・佐藤新右衛門・金子代助、
欠代は横山十助・村山元右衛門・酒井永吉、と原画の裏面に記してあった。長百姓は明らかではない。藩政期において複数の村役を置くことは珍しいことではない。
絵図上方(西)に見られる越後海道(街道)は平成の現代と違って諏訪宮と若松観音との間を通って町並みに入っていた。いまでも峠頂上付近の路傍に茶屋の遺構かと思われるものが見られる。にゐ(二井)町、熊小屋、殿原小路、粡町、坂の上、五日町、髭町、田町、美女松などの地名や、古い町並みは現在とあまり違わないが、南禅院、法性寺、安明寺、清養寺、中小松境の龍泉寺などの寺院は、その幾つかが遺構をかすかに残すのみである。
役場前の道路、駅前あるいは駅に向かう道路は大正以後の工事によるので、享和のこの時代にはまだできていない。

惟時(いとき):平成16年6月吉日
発 行:上小松之絵図出版会
⑧庵山(上和田字原)
往時の原の五郎右衛門は上和田村の豪農で当時四百町歩もの田地を所有する地主であった。ところが徳川幕府の年貢(上納金)に多額の負担(賦課)されて究極の余り田地を小作人に無償でくれて歩いと云う祖先であると聞いている。又、五郎右衛門屋敷前に小さな小山がある。これを庵山と呼び、小山のすそ野に庵寺を建て小山の頂上までの七曲りの道端には三十三観音を祀った。庵寺は先祖供養と上和田村人の観音信仰に読経三昧の日が続いていたと云われています。
「和田の昔あれこれ」より抜粋
編集;代表 進藤俊彦