伊達政宗ブログ

◎多勢丸中邸

俊彦進藤

・多勢組(注6)の流れを引いて、多勢一族中唯一、現在も工場経営して存続。
  明治44年(1910)、多勢吉郎次の娘婿多勢慶輔(養子/長女婿)、多勢丸多から独立して多勢丸中製糸工場を開設(48釜、約60名)。
  昭和2年(1927)、釜数180、社員260名となる。
  昭和15年6月、二代目賢次を中心に社業隆盛を極めるも、賢次急逝。初代慶輔現役復帰。
  昭和19年、陸軍赤羽被服廠の疎開倉庫に指定され工場閉鎖廃業。
  昭和23年、二代目賢次妻・とし、資本金50万円、社員20名、10釜にて 株式会社 多勢丸中製糸工場として再開。朝鮮動乱特需で活況。
  昭和27年 以降、当時最先端の自動操糸機を導入し合理化を図ろうとするも、目覚しく発展した化学繊維に押されて製糸業は次第に衰退の兆し、さらに養蚕農家の果樹転作が進み、原料となる繭の確保困難。 日本経済は神武景気(S30~33年)、岩戸景気(S33~37年)の恩恵を受けることなし。
  昭和35年、三代目賢二郎、電器部を創設。コンデンサー部品の製造を開始。
  昭和38年、株式会社 多勢丸中製糸工場を自主廃業し、株式会社 多勢丸中製作所 を設立。
  昭和61年、鉄筋造一部2階建て1,995㎡新工場建設。
  昭和63年、機械加工部門を分離し、関連会社 (株)創機を設立。
  現在、両社併せて資本金3,400万円、従業員22名。両社とも、四代目社長多勢経一郎。非常用自動起動発電装置、充電式蓄電池(ためまるくん)、LED投光機、ワイヤーハーネス、スペースヒーター等を製造。オーダーメイドにも対応。(株式会社多勢丸中製作所HPより)
・製糸業隆盛期に建設された多勢丸中邸。
  製糸業隆盛を極めた大正後期、その利益にて5年をかけて建設。総工費20万円とか。(現在の価格で約20億円前後か)(HPより 多勢賢二郎会長記)
  平成28年、登録有形文化財に登録。
棟札「大正拾壱年建設 大正拾壱年拾月貳拾日上棟祭挙行 斎主島貫哲 家主多勢慶輔 棟梁正 鈴木吉助 副 黒澤仙助」
《座敷棟の西側に接続する応接用の建築。座敷側屋根を切妻、西側は寄棟とし、ドーマー窓を設ける。外壁は下見板張で、1階は引違い出窓、二階は上下窓とするなど外観を洋風でまとめる。一階内部は手の込んだ和風。階段室と二階は洋風で、優れた意匠と技術を見せる。》(文化遺産オンライン)

編集;代表 進藤俊彦

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