伊達政宗の道

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<望郷/常念寺>

慶長19年越後高田城普請の総奉行に命じられた伊達政宗は造営成就して帰郷の途次、当国は御生国であり、特に当寺は縁故の道場だった為、昔を思い出させてくれる常念寺に二泊逗留した。需要なことは南奥州を治め領内には出生の地の舘山城や9代政宗夫妻や父輝宗の墓のある高畠や父輝宗の菩提寺覚範寺等、大きな建物等思い出のあるところが多い中、只一か所常念寺が選ばれて同寺に二泊されたといゆことである。

<伊達者(だてもの)>

1591年1月5日、豊臣秀吉による朝鮮出兵の命を受けて、伊達政宗にも兵1500の軍役を課せられたが、倍の兵3000にて岩出山城を発ち、4月19日に肥前・名護屋城に着陣した。
この時の伊達家行軍の戦装束は非常に絢爛豪華なもので、道中では噂となり、他大名の軍勢の通過は静かに見守っていた京都の住民も、伊達家の軍装の見事さには歓声を上げたという。
これ以来、派手な装いを好み着こなす人物の事を「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった。

<経営者>

天下統一の野望を秘め、隙あらば領土を拡大させようと、ときには自身の命を天秤にかけるような危険を冒し、天下人に挑み続けた政宗公。

しかし大阪の陣後、政宗公は従順な姿勢をみせ、江戸幕府の重鎮となっていきます。

また仙台藩の発展に力を注ぎ運河を整備するなど治水事業や、新田開発を積極的に行います。

人口増加により深刻な米不足に陥った江戸に、仙台藩は豊富な米をバンバン出荷し、一時は江戸の米消費量3分の1を仙台藩米が賄っていた、とも伝えられています。

晩年は仙台藩の経営に力を注いだ政宗公。

しかし1634年(寛永11)頃から体調を崩すようになります。

母・義姫の菩提寺の完成を祝った帰り、ホトトギスに誘われて入った山を政宗公は自身の墓所として定めました。それが現在仙台市にある「瑞鳳殿(ずいほうでん)」です。

<辞世の句>

1636年(寛永13)参勤交代で江戸に向かい、3代将軍・徳川家光と謁見。
その際、政宗公の衰弱ぶりに驚いた家光公は、翌日には数十名の医者を呼び、江戸中の寺社に快復平癒の祈祷をさせたといわれています。
しかし病状は回復せず、家光公自ら江戸城下の仙台藩藩邸に足を運び、政宗公を直接見舞い訪れました。
そして同年、参勤交代から1か月余りで政宗公はこの世を去ります。享年70歳。政宗公の死因は食道がん、もしくはがん性腹膜炎と考えられています。
江戸城下の藩邸屋敷で最期を迎えた政宗公。隠居することなく、最期まで生涯現役を貫き通しました。
臨終の際は見苦しい姿を見せまいと、面会を求める妻・愛姫を拒み続けたといわれています。
政宗公の死後、家光公は江戸で7日、京で3日、庶民にも喪に服すよう命じたそうです。

「曇りなき 心の月をさき立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」
(暗闇の中、月の光を頼りに前へ進むように、先のみえない戦国の乱世を、自分の信念だけを頼りに生きてきた、そんな人生だったなぁ。)という辞世の句を残し、70年間の生涯を閉じた伊達政宗(だて まさむね)。
この句のとおり、政宗公の半生は戦の絶えない戦国時代であり、その生涯は波乱に満ちたものでした。

<性格>
ここまで伊達政宗の生涯を紹介しましたが、最後に彼の性格がわかる逸話を3つ紹介します。

① 料理男子だった
「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である。」
上記の言葉は、晩年の政宗公の逸話を集めた『命期集』に記されている、政宗公の言葉です。

宮城の名物で知られる「ずんだ」

政宗公といえば、料理好きで知られています。宮城の名物で知られる「ずんだ」「仙台味噌」「伊達巻き」などは、政宗公が考案したという説があるほど。
また徳川家2代将軍・秀忠(ひでただ)公、家光公に、自ら手料理を振舞うほどで、『伊達氏治家記録』によると全国各地から旬のものや珍味を取り寄せ、およそ60種以上の食材を使い、豪華な懐石料理を振る舞ったとか。

② 筆まめ武将だった

政宗公といえば、その手紙の多さでも知られており、かなりの筆まめな気配り人間だったようです。
傍にいる右筆(ゆうひつ/選任の書き役)には頼らず、本文、日付、宛名、花押(サイン)ま
でそのほとんどが自筆で、刀だけでなく筆を執ることも大切にしていたことがわかります。
仙台市博物館には、小田原合戦から解放された直後、政宗公が国もとに知らせた手紙が所蔵されています。
内容は、秀吉に呼び出されたことから、茶の湯のもてなしを受けたこと。刀をいただいたこと、領国の没収は会津のみで済んだこと。
そして追伸には、「花押の形が少し違ったが、手直しするのもどうかと思うので、取り急ぎこのまま送ります。」と記されていました。マメですね。
家臣だけでなく、愛姫や10男4女の子供たちに宛てた手紙を多く残しています。
内容は「こういうことを心がけなさい」「お酒を飲みすぎないように」「茶の湯や香道、和歌などにも親しむように」というアドバイスだったり、「江戸への出立まえにお前(娘)に会えないのは大変残念だ」と親子愛にあふれる内容が記されています。

③ 愛煙家だった

政宗公は愛煙家でもあり、朝起きるとまずは一服……ではなく、1回に煙草を二、三服ほど吸ったそうです。終わると、自ら雁首(がんくび/キセルの火皿がついた頭部)をきれいに磨き、煙管箱に納めていました。

政宗公は1日4回、規則正しく喫煙していたようです。政宗公の墓所である瑞鳳殿からは、立派な煙管箱と竹製の掃除具が発見されています。

以上

編集;代表 進藤俊彦

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