伊達政宗ブログ

吉田松陰東北遊学

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松下村塾で高杉晋作や伊藤博文ら、後の明治維新に関わる人物を教えていたことから、明治維新の精神的指導者・理論者として知られています。

吉田松陰の生い立ち

吉田松陰は文政13年(1830年)8月4日、長州藩の下級武士・杉百合之助の二男として萩の松本村に生まれた。
松陰の生家は城下町を一望できる通称・団子岩と呼ばれるところにある古い一軒屋で、父・杉百合之助は下級武士ゆえ、それだけではなく農業中心の生活をしていたが、貧しい暮らしであったという。

 吉田松陰の誕生地(生家跡地)
長州藩主・毛利家が代々居城とした萩城
(別名・指月城)の古写真。


松陰には兄と弟、四人の妹がいたが、父は農作業に幼い兄と松陰を連れていった。そこで農作業をしながら武士としての心得や、尊王の精神教えられていった。

松陰には、他家に養子に行き家督を継いでいた吉田大助と玉木文之進という二人の叔父がいた。

吉田大助の養子先・吉田家は、長州藩の兵学師範(山鹿流兵学)の家柄であったが、大助に跡継ぎがなく、松陰は幼くして吉田家へ養子に入ることとなる。

ところが、まもなく吉田大助が急死してしまった為、松陰は6歳にして吉田家の家督を継ぎ、藩校明倫館の兵学師範になる宿命を背負う。そこで、松陰の兵学教育にあたったのが、山鹿流免許皆伝であった玉木文之進であった。                            
玉木文之進は自宅で松下村塾を開いた人物(あまり知られていないが、松下村塾は松陰が初めに開いたものではない)。松陰の教育は、主にこの玉木文之進という叔父によってなされたが、甘えや妥協を許さない、極めて厳格なものだったという。

松陰の叔父・玉木文之進の生家
松陰は玉木文之進により厳しく教育された。
松下村塾をはじめたのも玉木文之進である

玉木文之進の厳しい薫陶を受け、松陰は成長した。松陰が11歳になったとき、藩主毛利敬親の前で講義(親試)することになったが、松陰は山鹿流『武教全書』戦法篇を朗々と講じ、その講義は藩主をはじめ居並ぶ重臣たちも目を見張るほどのものであったという。その日から「松本村に天才あり」と松陰(当時:大次郎)の名は萩城下に知れ渡った。
その後、松陰は19歳で、玉木文之進らの後見人を離れ、藩校・明倫館の独立師範(兵学教授)に就任。21歳の時、見聞を広めるために、藩に九州遊学の希望を申し出、10ヶ月の遊学許可が下りることになった。

 

青年期(脱藩・下田踏海)

吉田松陰が入浴した村山行馬郎邸の風呂場。
  「吉田松陰寓寄処」は当時のままの姿を残す
最高の松陰スポットと言える。

脱藩した松陰は、宮部鼎蔵らと水戸(茨城)、会津(福島)、弘前(青森)などを訪れ視察。江戸に戻った後、脱藩の罪で萩に送還されることとなる。脱藩の罪により藩士の身分を失い、父・百合之助の保護下におかれることとなった松陰であるが、松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出る。そして、2度目の江戸遊学へ。佐久間象山に師事する。
江戸での遊学中、嘉永6年(1853年)6月、ペリー提督率いるアメリカ合衆国東インド艦隊が浦賀に来航(いわゆる黒船来航)。浦賀に出かけ黒船を観察した松陰は大きな衝撃を受け、幕府の国防に対する不備を強く認識するとともに、多くの志士たちが感じたように危機感を覚える。西洋列強各国から日本を守るためには西洋先進国を知ることである。松陰は、海外渡航を決心した。


ペリーが去ってから一ヶ月後、プチャーチン率いるロシア艦隊四隻が長崎に入港したという知らせが届き、松陰はロシア船に乗り込む密航計画を立て長崎に向かったが、着いたときには艦隊は出航した後だった。再び江戸にもどった松陰はそれでも密航をあきらめない。
嘉永7年(1854年)1月、ペリー再来航の際、密航計画を知り松陰に強く願い出た長州藩足軽・金子重之助とともに密航を再度企てる(松陰個人と師弟関係を結んだのは、この金子重之助が一番最初ということになる)。

松陰と金子重輔はペリーの船に乗り込もうといろいろ手を尽くし、走り回ったがことごとく失敗。最後には、下田に移動したペリーの船に、夜間、小舟をこぎ寄せた。

弁天島付近にある
「吉田松陰・金子重輔踏海企ての跡」の説明文。
西暦1854年4月24日の夜の出来事であった。

旗艦ポーハタン号上で、主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談し、アメリカ渡航の希望を伝えるが、アメリカと日本は条約を結んだばかりで、お互いの法律を守る義務があり、ペリー側は、松陰たちの必死の頼みにも渡航を拒絶。松陰の密航計画はまたしても失敗した。(その時、松陰たちが手渡した「日本国江戸府書生・瓜中萬二(松陰 の偽名)、市木公太(同行した金子重輔の偽名)、呈書 貴大臣各将官執事」との書き出しから始まり、「外国に行くことは禁じられているが、私たちは世界を見たい。(密航が)知られれば殺される。慈愛の心で乗船させて欲しい」などと訴えている意の手紙が米国で発見されている)。

松陰と金子は自首し、江戸伝馬町の牢屋に入れられ、その後、萩に送還され、松陰は士分が入れられる野山獄、金子は岩倉獄へと投獄される(その後、金子重輔は劣悪な環境の岩倉獄で25歳という若さで病死、松陰は金子の死を深く嘆き悲しんだ)。
野山獄に投獄された松陰は、獄中で囚人達を相手に「孟子」の講義を始める。これが後に、自己の立場を明確にした主体性のある孟子解釈として、松陰の主著となる「講孟余話」としてまとめられた。また、後に松下村塾の助教授となる富永有隣とも野山獄で出会った。吉田松陰の教えの原点は、牢獄の中にあったと言えるかもしれない。

吉田松陰の死生観(留魂録)
処刑直前に江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられた「留魂録」。
全十六節からなるこの留魂録は、「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」という有名な辞世の句を巻頭にして始まる。
中でも特筆すべき第八節は、「松陰」の死生観を語るものであり、
現代に生きる私たちの心にも強く訴えかけてくる行(くだり)である。

【第八節(現代語訳)】

松下村塾

一、今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。
つまり、農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを聞いた事がない。
私は三十歳で生を終わろうとしている。

松陰先生墓所

未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。


だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。
人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。

十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。
もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。
同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。
(参考文献:古川薫著「吉田松陰 留魂録」)

◎3月21日~3月25日の行程。

※江幡は松陰らを仙台で探しますが、
 留守であったので出発したと思い、
 福島方面に向かいましたが、
 諦めて戻る最中に遭遇したようです。

嘉永5年3月21日
仙台で世話になった諸氏に挨拶して出立。
広瀬川を渡って名取川を越え、
中田宿で宿泊。
3月22日。
宿を出て増田、③岩沼槻木、④舟迫に至り、刈田宮(刈田嶺神社)に向かう道で、
弥八(江幡五郎)と合流。⑤白石宿で宿泊。
3月23日。
山中を歩いて二里。
五蔵(江幡五郎)が⑥戸澤まで見送り、
一緒に宿泊して明日別れることにする。

3月24日。
宿に再び浄瑠璃を呼び、忠臣蔵を8回語らせた後、江幡五郎と別れ戸澤を出発。渡瀬関町を越えて⑦滑津に宿泊。※またも忠臣蔵。しかも朝からです。 これも8回語らせたのではなく、8段目ということでしょう。

3月25日。
宿を出て湯原新宿、⑧高畠を経て、米沢城下に宿泊。翌日、米沢藩士高橋玄益を尋ねますが、藩主が明日出立するので慌しく会えず。※中央7丁目に吉田松陰旅宿の碑が、建てられています。

米沢には、友人である宮部鼎蔵と共に東北遊学をした際、友であった米沢藩士高橋玄益を訪ねたという記録が残っています。しかし訪れた日が偶然にも藩主上杉斉憲が参勤交代で江戸に登る前日だったため、当初の目的は果たせませんでした。

吉田松陰逗留地跡
松陰は米沢の地を訪れ、どんなことを思ったのでしょうか。現在は宿泊した旅籠があった場所に石碑が建てられています。

 

吉田松陰逗留地跡

◎3月27日~3月29日の行程

3月27日。
辰時(午前8時頃)、藩主が出立。
①米沢を出て舟坂、②綱木桧原を過ぎて、
大潮宿に宿泊。
3月28日。
宿を出て熊倉塩川を過ぎ、
会津城下に至る。
志賀與三兵衛宅を訪問し、井深蔵人黒河内伝五郎高津平蔵、一関藩士佐世岱太郎に会う。
七日町の宿に宿泊。
3月29日。
七日町を出て高津平蔵に挨拶をした後、湯川橋を渡り、黒川本郷に至る。
大内宿を過ぎて⑦田島宿に宿泊

※会津はこの旅2度目の訪問。
 1度目に会った人々との再会です。

編集者 代表 進藤俊彦

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