伊達政宗ブログ

江戸時代(寺子屋)

寺子屋
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庶民の日常生活に必要な実用的な教育を行っていた「寺子屋」

江戸時代の教育についてお話しさせていただきます。庶民が通った「寺子屋」です。

江戸時代の庶民は、日常生活に必要な教養を得るために「寺子屋」という教育機関 で「読み」「書き」を学んでいました。

江戸時代の庶民の教育は、もともと家庭や社会生活のなかで行われていました。いわゆる「ご奉公」といった集団生活が行われているなかでの教育が、重要な意味を持っていたのです。

ところが、江戸時代の中期以降に寺子屋が増加し、庶民の子どもの教育機関としてしだいに一般化し、重要な位置を占めることとなりました。

寺子屋は、庶民の子どもが読み・書きの初歩を学ぶ簡易な学校でした。幕末には江戸や大阪だけではなく、地方の小さな都市や農村・漁村にまで設けられるなど、全国に広く普及しています。

明治5年の学制発布によって、短期間に全国に小学校を開設できたのは、寺子屋の普及がとても大きかったと言われています。

寺子屋では、藩校のような高尚な学問を修めるのではなく、庶民の日常生活に 必要な実用的・初歩的な教育が中心となっていました。幕末になると、いわゆる「読 み・書き・算盤」を併せて教える寺子屋も多くなり、明治の学制発布以降の小学校に近づいていると言えます。

幕末に計算の教育が庶民の間に広く普及していたことで、庶民の計算能力が高まったのでしょう。近代に向けての基礎がつくられていたということは、大きな意義があったのではないでしょうか。

寺子屋

なぜ江戸時代に「教育爆発」となったのか

このように、江戸時代、とくに 世紀は庶民も含めた就学率が大幅に向上した「教育爆発の時代」とも言われます。

なぜ庶民の間で教育熱が高まったのかについては、一説によると幕府の「文書主義」が要因であるとも言われています。街中には幕府の通達である「高札(こうさつ)」が立てられていて、それが読めなくては生活に支障が生まれたのでしょう。  また、貨幣経済の発達によって利子の計算が必要になったこと、庶民向けの娯楽本の出版も増えたことで、「読み・書き・算盤」の必要性が増したことも背景にあったのかもしれません。

ところで、寺子屋では「読み・書き・算盤」だけを教えていたのでしょうか。決してそのようなことはありません。身の回りの清掃や他人への応対、親や年長者へ敬意を払うこと、友人に親しむことなどを徹底して身につけさせたそうです。

なお、 世紀の江戸における寺子屋への就学率は70~85%、識字率は70%以上だったと言われています。これは世界でもトップレベルでしょう。幕末期には、 武士はほぼ100%、庶民でも男子の50%前後は読み書きができたという説があります。

幕末維新の時代に日本を訪れた多くの外国人が、日本人の識字率の高さ、そして礼節などを賞賛しています。江戸時代の日本は、世界最高の教育水準を誇る「教育先進国」だったのでしょう。

いまを生きるわたしたちは、かつての日本がそのような国であったことをもっと誇りととらえていいのではないでしょうか。同時に、日本人が本来持っていたはずの大きな可能性に気づくべきなのではないかとも思うのです。

寺子屋:驚くべき江戸時代の教育力

寺子屋の図

バナー写真:無款 「寺子屋の図」(アフロ)

教育 歴史 家族・家庭 2021.03.16

高橋敏【Profile】

江戸時代における庶民の教育機関・寺子屋は、子どもたちに文字の読み書き、算盤(そろばん)を教えた。しかしそれ以上にしつけを重視し、一人前の人間を育てることを目指した。現代の教育がそこから学ぶべきことは多い。

出典:nippon.com
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01005/

ヒトの赤ん坊を一人前の人間にする広義の教育は、有史このかた人類が種を維持するために未来永劫(えいごう)に継続しなければならない共同の難事業である。近現代社会がもたらした文明、科学の発展をもってしても、この難事業が合理化され容易になることは決してなかった。近代教育の結晶とも言うべき国民皆学の学校制度が登校拒否、いじめなどにより動揺をきたし、これを支える地域共同体が核家族化、ひきこもり、子どもの貧困・虐待などによって内部崩壊を遂げて久しい。このような教育の混迷状況を見るにつけ、近代の教育が否定、踏み台にした前近代、江戸時代のヒトを人間にする教育システムを見直すべき時に来ていると思う。

日本全国で文書の書体を統一

江戸時代は日本歴史上かつてない「平和の時代(パクス・トクガワーナ)」であった。徳川家康が1615年に大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした元和偃武(げんなえんぶ)から、1867年の大政奉還まで実に2世紀半の間天下泰平の世が続いた。日本史ブームで戦国時代が昨今もてはやされているが、殺戮(さつりく)と略奪、人身売買の恐怖に曝(さら)されていた戦乱の世に翻弄(ほんろう)され続けた庶民にとって、徳川の平和は待ちに待ったまさに僥倖(ぎょうこう)であった。

江戸時代と言えば、武士が農工商を身分制度で束縛した暗いイメージがあるが、果たして事実であろうか。徳川の平和が2世紀半もの間持続できたのは、武力による武断政治と決別し、仁政を掲げ法治主義による文書を介した文治政治に転換したからであった。度重なる新田開発で耕地が2倍に増え、大規模家族が解体され、小百姓や分家の自立が進み、田畑と屋敷を所有することが可能になった。年貢収取1つとっても恣意(しい)的な搾取(さくしゅ)を禁止し、割付け状を発し、領収の皆済目録を渡したように、農民の支配は全て文書の手続きをもって行われた。これを可能にしたのは文書が、幕府の統治する北は蝦夷地(えぞち)から南は琉球(りゅうきゅう)まで「御家流(おいえりゅう)」という書体で統一されていたからであった。

庶民の教育熱によって支えられた教育システム

平和の時代に経済・生活活動が活発化したことで、商家だけでなく農家においても、商取引、土地売買、金銭貸借、家産相続など、トラブル防止のため文書による契約手続きが不可欠となった。その結果、江戸時代は、御家流の読み書きと算盤が必須の文字文化を前提とした社会となった。高札(こうさつ)や御触(おふ)れを読み、他人と取り交わす証文を判読できなければ騙(だま)され、不利益を蒙(こうむ)るのである。

その一方で百姓町人に対して、町や村に居住し家族を養うため家を持ち自立を促す政策が幕府によって進められた。家を守り、永続させるためには子どもを一人前の成人に成育させ、立派な後継ぎにしなければならない。かくして読み書き算用を習得させたいという庶民の教育熱が一気に高まり、寺子屋が津々浦々に誕生していった。幕府の支配は原則民事には介入しない。そのため寺子屋は、許認可の必要なく自由に誰でも開業できたのである。

初級から上級への教育カリキュラム

師匠と教場一部屋さえあれば成立した寺子屋は、列島日本の6万余の村数くらいあったと言われる。校舎などの施設、教員資格・教科書検定・カリキュラムの編成など教育全般を国が管轄する近代の学校と比べ、就学の義務もなく質量ともに一段も二段も劣ると見なされてきた。しかし事実は異なる。入退学は任意で自由、学習の中身は読み書き算用の実学を基本に師匠が自由に裁量する寺子屋は、束脩(そくしゅう=授業料)を支払ってまでも子どもに文字文化を習得させたい親の熱意によって運営されていた。親の自主性によって寺子屋は支えられ、子どもを一人前の人間にするための教育システムとして十分に機能していたのである。

寺子屋は男女共学で一斉授業の形式はとらず、師匠が個々の筆子(教え子)の実情に合わせ手作りの手本を与え一対一で指導する。現存するものだけでも7000種類(そのうち1000種類が女子専用)もある往来と呼ばれたテキストはバラバラで文字文化習得の体系をなしていないと見なされがちだが、それも誤解である。実は全国の寺子屋では、筆子に応じて巧みに実用のカリキュラムが組まれていたのである。

19世紀後半の寺子屋の実態が明らかになる上野国(こうずけのくに)勢多郡原之郷村(現・前橋市)の寺子屋九十九庵(つくもあん)の学習事例を紹介しよう。まず「源平(名頭字尽、ながしらじづくし)」。「源平藤橘」から始まる115文字の人名の学習である。次が「村名(むらな)」。そこには生活圏である勢多郡の村名が列挙されている。続いて「国尽(くにづくし)・郡尽」。日本66カ国の国名と上野国の郡名である。こうした師匠手作りの教科書によって、「源平」から「国尽」の順番で全ての筆子が学んでいった。まず人の名前の読み書きをマスターさせ、周辺の村名、郡名、国名と近くから遠くへと自分の暮らす周囲の地理を覚え込ませる。いずれも社会生活に不可欠な最低限の基礎学習である。これらは初級者用のテキストと言ってもいいだろう。

この後は筆子一人ひとりの能力や家庭事情を考慮して、いくつかのコースが用意された。1年の生活暦を綴(つづ)った「年中行事」や御上(おかみ)の法令を集約した「五人組条目」は中級で、世間を生き抜く知恵の詰まった「商売往来」「世話千字文(せわせんじもん)」が上級者用のテキストであった。「借用証文」「田畑売買証文」「関所手形」など実生活に密着した証文類は基礎学習が済んでから適宜挿入された。

しつけを重んじた寺子屋

寺子屋は読み書き算用のみを教え、筆子のしつけには無関心であったかのようなイメージがあるが、そんなことはない。師匠は親に甘やかされる筆子を前に礼の教育、しつけに苦闘している。駿河国駿東郡吉久保村(現・静岡県小山町)の湯山文右衛門は「余力学文」を寺子屋の目標に掲げている。『論語』の「行有余力、則以学文」(行いて余力あらば、すなわちもって文を学べ)の文言である。つまり、道徳の実践をして余力があれば学問を学ぶということで、学問より道徳を上位とした。家内では親に孝行し兄弟仲良く、外では行いが信・仁である条件を満たした上でなお余力ある者が文字文化を学ぶ資格があるというのだ。

1844(天保15)年、この教えを実践するため「子供礼式之事 十八か条」を定め、筆子と親に提示した。抄出して以下に紹介したい。

着座畳に手をつき額をさげて心静に礼いたし席ニ先々よりすわり可申事
(正座して畳に手をついて額をさげ、心静かに一礼して来た順に着席しなさい)

客来之時烟盆いたし茶酌皆々一同ニ礼を可致事
(来客があった時はたばこ盆とお茶を出し、皆一緒に一礼しなさい)

客入来之内ニはものよみ高声無之様ニ可為事
(来客中は大声で素読しないようしなさい)

大小便壱人宛限り可出事
(大便・小便を催した時は、ぞろぞろと行かないで一人ずつ行きなさい)

友達は皆兄弟同意ニ候睦敷互ニ行義正し幾末迄之親ミ可申候事
(友達は兄弟同様であるから仲良くして、互いに行儀を正し末々まで親しく付き合いなさい)

喧嘩口論ハ皆自分之悪ゆへ内々親々取上ざる事
(筆子同士のけんか口論は皆本人が悪いから起きるので、親はいちいち取り上げてはならない)

師対面無之内帰之節急度言葉可演都而 我が宿ニおゐても朝夕両親へ向て日礼いたし食可進事
(お師匠さんに挨拶しないで帰るときは他の筆子にさよならを言いなさい。家でも朝夕の食事の時は父母に向かって礼をしてから食べなさい)

朝寝すべからず手水遣ひ候ハヽまづ天道を拝し我が先祖を拝し可申事
(朝寝坊しないで起きたら水で顔を洗い、まずお天道さまを拝みご先祖さまを拝みなさい)

右之通り毎日読み為聞急度礼義相たしなむべき事なり
(右の箇条を毎日読み聞かせ、必ず礼儀作法を身につけなければならない)

教場内での礼儀作法から来客への接遇、礼に始まり礼に終わる。また筆子同士のけんか口論に対する親の介入を禁じ、三世の契りと言われた師弟関係を核に筆子仲間を生涯の友として大事にすること。さらに早起きして洗顔、お天道さま、ご先祖さまを拝み、食事には父母に一礼を欠かしてはならないと家の道徳にまで踏み込んでいる。寺子屋の文字文化の習得はあくまでも「余力」であって、実生活から遊離して文雅の道楽で身を滅ぼし家名を汚すことを危惧したのである。そこには読み書きの習得と一体化したしつけがあった。

一人前の人間を育てる若者組の教育

こうした寺子屋のしつけを受け継いで、厳しく一人前の人間に鍛え上げたのが若者組(わかものぐみ)であった。娘組(むすめぐみ)もあったようだが、資料が残っていないので詳しくは分からない。

若者組は口伝(くでん)や所作によって、地域の青年男子を一人前にするために非文字の伝統的習俗をたたき込む教育システムである。村・町の共同体において年齢によって組織され、貧富や家格に関係なく15歳になると全員が子どもと決別して若者入りをする。親元から切り離され、寝宿(ねやど=合宿所)に寝泊まりし、年齢の上下が絶対の服従を強いる厳格な掟(おきて)、規範の下で集団生活を送る。口授や身ぶりによって文化を伝承させる非文字の教育である。親はもちろん役人の介入も許さず、新入りの若者を共同体の一員に鍛え上げていく。今や封建遺制の汚名の下、祭礼の執行にその残影をしのぶ他ないが、個性、能力の開発を目標とする近現代の学校制度から完全に失われてしまった教育システムだと言えよう。

江戸時代の教育力の内実は読み書き算用の文字教育と、若者組・娘組の伝統的な非文字教育の拮抗(きっこう)、連携によって強固なものになっていたのである。そこには一人前の人間を育て上げようという強い意思が感じられる。江戸時代の教育に現代人が学ぶべきことは決して少なくない。

明治以降(小学校)

近代日本社会の教育制度(1)  江戸時代から明治維新

  • あらまし
  • 250年間続いた徳川幕府の統治で、身分制度を基礎にした封建制度が続いていました。明治新政府の課題は、いかに早く、日本を西欧諸国並みの近代国家に変革することでした。当時、近代国家とは、長州藩の伊藤博文、幕府の渋沢栄一らが、渡欧して学んできた資本主義国民皆兵義務教育化された初等教育制度、高等教育を受けた人材による政府機関の業務遂行、そして大学等の人材を活用した科学技術研究の実施などの体制が整った社会でした。
  • 西欧諸国に整いつつあったこれらの制度は、まだ日本になく、江戸時代末期に、一部の藩で、イギリスやフランスの制度を模した制度の導入が始まったばかりでした。とは言え、社会の根幹である時間制度は、不定時法のままであり、暦は太陰暦のままでした。つまり、庶民にとっては、江戸時代の生活とほとんど変わらない生活が、続いていたのでした。そのような社会的背景の中で、新政府の中心にいた人々は、一日も早い日本の近代化の進展に苦慮していました。
  • 新政府の中心にいた人々にとって、問題の解決をより困難にしていた問題が、新政府の財政のひっ迫でした。明治維新の戊辰戦争とそれに続く西南戦争で、政府の財政は底をついていました。さらに日本社会の近代化に欠かせない、鉄道建設事業への投資もあり、近代国家建設のために投入できる資金がほとんど無かったことです。それでも新政府は、大学設置のために外国人教員を雇い、小学校教育の導入に向けての教育方法の決定と教科書制定のための人材も米国から招きました。さらに、国民皆兵制度に基づいた軍の準備と、海外からの兵器の調達も行いました。1872年、明治新政府は、教育制度を定めた「学制」を発表し、全国民に8年間の小学校教育を義務付けました。
  • 急ごしらえの新政府でしたが、この義務教育制については、フランスで導入されていた制度を模して制定したものでした。それまで、江戸時代の初等教育は、庶民の家の子供たち、すなわち商人や農民の子の場合、「寺子屋」と言う名で知られている手習い所(てならいしょ)で、文字の読み書きや「そろばん」を教わるやり方が一般的でした。寺子屋でそれらを教える手習い師匠(てならいししょう)は、武士や寺の僧侶が多かったようです。寺子屋は私塾だったので、そのための費用は、子供たちを通わせる親の負担でした。寺子屋の授業は、入塾した子供たちが入塾年月の順に集められ、同じ書物を開いて、師匠が読む声を聴き、子供たちがそれを真似て声を出して読むという形式が多かったようです。ただ、入塾の年齢に定めがなかったため、塾生の年齢はバラバラでした。また、長期に在籍していた子供たちの中には、四書五経なども学ぶ子供もいたようです。そのような寺子屋は、全国に数万か所あったと推定されています。
  • 武家の子供たちの場合は、「藩校」(はんこう)と呼ばれていた藩が設立した漢学塾に通いました。基礎的な文字の読み書きなどは、藩校に入る前に修得されていて、藩校の教育では、中国の古典である孔子の「論語」などを読み、内容を記憶することが主たる内容でした。将来、藩の武士として、役職に就くための準備として、中国古典に関する知識が不可欠だったからです。その藩校のモデルとなっていたのは、江戸で儒学を教えた昌平坂学問所でした。しかし、江戸末期になると、西洋の知識を応用する場面も多くなったため、武士の中には、中国の古典の知識だけでなく、洋学の知識も重要になりました。そのため、特別な私塾に籍を置いて学ぶ人もいました。
  • 19世紀後半の1868年、日本では、それまでの江戸幕府に代わって、明治新政府が誕生しました。これは、日本が封建社会から、近代社会へ移行することを意味していました。ヨーロッパ世界では、イギリスで産業革命が終わりに近づき、近代資本主義社会が成立していました。ヨーロッパ大陸の大国、フランスでは、フランス革命の後、共和制に移行し、経済発展が著しい時代でした。フランスに遅れたドイツでは、ドイツ帝国の産業化とドイツ帝国の建設が急がれていました。
  • 日本の国内を見ると、約250年間続いた徳川幕府の統治で、身分制度を基礎にした封建制度が続いていました。明治新政府の課題は、いかに早く、日本を西欧諸国並みの近代国家に変革することでした。当時、近代国家とは、長州藩の伊藤博文、幕府の渋沢栄一らが、渡欧して経験してきた資本主義国民皆兵義務教育化された初等教育制度、高等教育を受けた人材による政府機関の業務遂行、そして大学等の人材を活用した科学技術研究の実施などの体制が整った社会でした。
  • 西欧諸国では整いつつあったこれらの制度は、まだ日本になく、江戸時代末期に、一部の藩で、イギリスやフランスの制度を模した制度の導入が始まったばかりでした。とは言え、社会の根幹である計時法は、不定時法のままであり、暦は太陰暦のままでした。庶民にとっては、江戸時代の生活とほとんど変わらない生活が続いていました。そのような社会情勢の中で、新政府の中心にいた人々は、一日も早い日本の近代化に苦慮していました。
  • 新政府の中心にいた人々にとって、問題の解決をより困難にしていた問題が、新政府の財政のひっ迫でした。幕末の戦争とそれに続く西南戦争で、政府の財政は底をついていました。さらに日本社会の近代化に欠かせない、鉄道建設事業への投資もあり、近代社会の建設のために投入できる資金がほとんど無かったことです。それでも新政府は、大学設置のために外国人教員を招き、小学校教育の導入に向けての教育方法の決定と教科書策定のための人材も米国から招きました。さらに、国民皆兵制度に基づいた軍の準備と、海外からの兵器の調達も行いました。1872年、明治新政府は、教育制度を定めた「学制」を発表し、全国民に8年間の小学校教育を義務付けました。
  • 急ごしらえの新政府でしたが、この義務教育制については、フランスで導入されていた制度を模して制定したものでした。それまで、江戸時代の初等教育は、庶民の家の子供たち、すなわち商人や農民の子の場合、「寺子屋」と言う名で知られている手習い所(てならいしょ)で、文字の読み書きや「そろばん」を教わるやり方が一般的でした。寺子屋でそれらを教える手習い師匠(てならいししょう)は、武士や寺の僧侶が多かったようです。寺子屋は私塾だったので、そのための費用は、子供たちを通わせる親の負担でした。寺子屋の授業は、入塾した子供たちが入塾年月の順に集められ、同じ書物を開いて、師匠が読む声を聴き、子供たちがそれを真似て声を出して読むという形式が多かったようです。ただ、入塾の年齢に定めがなかったため、塾生の年齢はバラバラでした。また、長期に在籍していた子供たちの中には、四書五経なども学ぶ子供もいたようです。そのような寺子屋は、全国に数万か所あったと推定されています。
  • 武家の子供たちの場合は、少し違っていて、一般的には、「藩校」(はんこう)と呼ばれていた藩が設立した漢学塾に通いました。基礎的な文字の読み書きなどは、藩校に入る前に修得されていて、藩校の教育では、中国の古典である孔子の「論語」などを読み、内容を記憶することが主たる内容でした。将来、藩の武士として、役職に就くための準備として、中国古典に関する知識が不可欠だったからです。その藩校のモデルとなっていたのは、江戸の儒学を教えた昌平坂学問所でした。しかし、江戸末期になると、西洋の知識を必要とする場面も多くなったため、武士の中には、中国の古典の知識だけでなく、洋学の知識も必要になっていました。そのため、特別な私塾に籍を置いて学ぶ人もいたようです。
  • 1868年、明治新政府は、学校制度案の作成に着手しました。1871年、明治新政府は、「大学規則」で教育制度の大枠を発表し、次の年(1872年)文部省を設立しました。文部省は、1872年に「学制」を公布し、新しいフランス式の初等教育制度を模範とした8年制の制度を発表しました。その上に、中等教育制度と、全国に8大学を設置する計画になっていました。しかし、当時の日本社会では、社会の全ての子供たちに、8年の年月を小学校で学ばせるという制度は、理想像でしかありませんでした。特に、一般の人々の5人に4人は農民であり、そのほとんどが貧しい小作農に従事する人々でした。8年間の期間に渡り、子供たちを学校に通わせる経済力は、庶民にはありませんでした。しかし、政府の目から見れば、小作農の次男や三男でも、将来、大切な兵士になる人材でした。その兵士が、読み書きができなければ、兵隊として使いものになりません。最低の知識を与えておかなければならないのです。
  • 新政府は、この社会の現実と、教育のあるべき姿との差に悩みました。この矛盾を解消するために政府は、1877年教育令を発表し、日本の義務教育制度をより現実的なものに変更しました。小学校への修業年限は変わりませんでしたが、小学校を前期と後期に分け、前半の修業年限のうち、最低通学期間を16か月と短縮しました。8年間を実質的に16か月にしたため、その期間で教えられる知識の量は、大幅に少なくなりました。これによって、明治初期の初等教育は、江戸時代の寺子屋の読み書きとそろばん程度にまで、圧縮されました。それでも、日本の全ての国民を対象にしたため、日本社会の識字率は、他国に比較すると、大きく向上しました。
  • この小学校教育における教育内容の圧縮によって、小学校教員の供給問題は、当面の課題として表面化しないようになりました。かつて、寺子屋で読み書きそろばんを教えていた人々を、小学校の教員として、その仕事に従事させることが可能になったからです。西洋の算数に通じていなくても、算術を教えることができたからです。後に和算の知識がありながら、西洋式の算数の知識が無かった人々の中に、算数を学び、その教授ができるようになった、元寺子屋の教師も増え、正式な小学校教員に登用された人材も出現したとの記録があります。1882年頃になると、小学校では男児の場合、約半数の子供たちが、日本語の読み書き、四則演算、習字、体育を習うようになりました。
  • 学制導入で、新政府は、小学校の教授法として、17世紀のポーランドで提唱されたコメニウス法を採用しました。これは、今日でも学校や進学塾で利用されている方法で、一人の教師が多数の学習者を対象に、問題とその解き方などを説明し、その説明の後で、個々の学生に、類似の問題を解かせて、知識を学ばせる方法です。この方法は、教授対象の学習者の事前知識に大きな差がなく、理解能力にも大きな差がなければ、一度に数多くの学習者に知識を授けることが可能なため、大変効率の良い方法となります。ただし、学習者が教授者の説明を確実に理解し、類似の問題を自分の力で解けるようになったのか、それとも、「教えられた解き方を記憶して、理解しないで、解いたのかを判別する」ことは機械的にはできません。
  • 学習者が、与えられた問題に正解できたことが、教授者の説明をしっかりと理解したかどうかを判定する基準にはなりません。このことが、大きな教室での大人数の講義に向いている半面、その効果に疑問が生じる難点があります。例えば、3分の1に2分の1をを加えると、答えが6分の5になる」ことを教える時、3分の1と2分の1を通分して,6分の2と6分の3にして、和を求めることが可能です。しかし、分母の3と2を乗じた6を分母にして、分子を2と3として和をとれば、分母は6、分子は、5と計算できるので、6分の5を答えにできます。両方とも正しい答えであり、差はありません。しかし、分数の和を計算するには、分母を共通にしなければならないという理屈を、理解しているかどうかは、答えからでは分かりません。

日本の学校制度~小学校を卒業したら…~

教育の義務と権利

(1) 枢密院会議筆記

(1) 枢密院会議筆記 

小学校を卒業すると、次に進学する学校はどこでしょうか。中学校ですね。現在の日本では、日本国憲法第26条第2項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」とある通り、国民には教育を受けさせる義務があると同時に教育を受ける権利を持っています。義務教育課程に相当する学校が、小学校(または特別支援学校の小学部)と中学校(または中等教育学校の前期課程または特別支援学校の中学部)です。小学校に6年間通い、引き続き中学校に3年通うことが法令で定められています。それぞれの学校での各修業年限から、義務教育課程の学校制度は「六・三制」と呼ばれています。義務教育以外の高等学校3年・大学4年を合わせた現在の学校制度を「六・三・三・四制」と呼ぶこともあります。

このような学校制度は、昭和22年(1947年)に教育基本法と共に制定された学校教育法で定められたもので、明治期以来の戦前の学校制度が大きく変更されるかたちで成立しました。 (1) は学校教育法案を審議した際の会議録です。冒頭部分に、変更の理由として、

(1)教育の機会均等
(2)普通教育の普及と男女差別の撤廃
(3)学校制度の単純化

が挙げられています。これらの点に注目しながら、アジ歴の資料で戦前の学校制度の移り変わりを見てみましょう。

小学校の義務教育化

(2) 『学制』 

(3) 小学校令 

日本最初の近代学校制度は明治6年(1873年)に、フランスを模範とする中央集権的な「学制」として定められます。「学制」では学校制度が大学・中学・小学の三段階と定められ、国民に教育の機会が開かれました。(2) は「学制」の序文です。ここには「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆゑんのものは他なし。身を脩め智を開き才藝を長するによるなり。而て其身を脩め智を開き才藝を長するは學にあらされは能はす。是れ學校の設あるゆゑん(道徳を身につけ、能力を引き出し伸ばすことを学び、立身出世を可能にするのが学校である)」と明示されています。また、小学校は「人民一般必す学はすんはあるへからさるものとす(国民は必ず学ばなければならないこととする)」と就学義務のある8年制の学校(下等小学校4年、上等小学校4年)として規定されました。しかしながら、授業料や学校の建設・維持費などは教育を受ける主体、つまり国民が負担することとされており、負担に耐えかねた人々の中からは学制反対一揆が起こることもありました。

明治12年(1879年)には学制が廃止され、アメリカを模範にして学校の設置や就学義務を地方に任せる教育令が定められました。しかし、官僚らから批判の声が上がり、翌明治13年(1880年)には学校や教育に対する政府の統制を強める改正が行われました。

教育の義務という言葉が初めて登場するのは明治19年(1886年)、勅令として出された「小学校令」 (3) においてです。この後戦前期を通して修業年限は異なるものの、3~6年制の小学校(尋常小学校)が義務教育課程となりました。

小学校卒業後の進路はどうでしょうか。戦前の日本では、小学校を卒業した後、必ずしも卒業生全員が中学校に進学するわけではありませんでした。自らの希望する進路に合わせて、中学校以外の各種上級学校に進学したり、あるいは進学せずに家業を手伝ったり、職に就いたりしました。また、男女によっても進学ルートは異なっていました。

複線型の進学システム

(4) 学校系統図

(4) 学校系統図 大正8年 

上級学校に進学しようとする場合にも、最終的な目標学校に合わせて進路を選択する必要があります。進学できる学校の種類は時期によって異なりますが、総じて「複線型」と呼ばれる複雑な学校制度となっています。

たとえば、高等教育機関まで含めて教育制度整備のほぼ完了した大正8年(1919年)の学校制度を見てみましょう(1940年代以降には戦争という時局変化に対応するため、この教育体制からさらに学校名称や制度が一部変更されます)。(4) は当時の学校の系統図です。この時期は、尋常小学校6年間が義務教育課程です。

尋常小学校卒業後の進路としては、男子の場合には(a)中学校を経て、(a-1)高等学校-大学へと進むルート、(a-2)専門学校へと進むルート、(a-3)高等師範学校へと進むルート、(b)高等小学校を経て、(b-1)師範学校、(b-2)実業学校へと進むルート、さらに(c)として、(c-1)実業学校・(c-2)実業補習学校に進むルートの3つに大きく分けられます。女子の場合も、高等女学校を経て女子高等師範学校へ進むルートと、高等小学校を経て師範学校、実業学校へと進むルート、実業学校・実業補習学校に進むルートの3つに大きく分けられます。女子の場合には、ごく一部の学校を除いて、高等学校にも大学にも進学することは認められていませんでした。

進路選択と将来の職業

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ここで1890年代生まれの江戸川乱歩(94年生)、宮沢賢治(96年生)、川端康成(99年生)の3人の小説家について、その学校歴を見てみましょう。江戸川乱歩は愛知県立第五中学校を経て、早稲田大学(乱歩入学当時、名称は大学ですが、正しくは専門学校令に基づく専門学校でした。のち大学令に基づく大学に昇格します)に進学します。つまり(a-2)のルートをたどっていることがわかります。乱歩は早稲田大学卒業、さまざまな職を経験し、小説家としてデビューしました。宮沢賢治は盛岡中学校を経て、盛岡高等農林学校に進学します。高等農林学校も専門学校ですので(a-2)のルートになります。宮沢賢治は学校卒業後、稗貫郡立稗貫農学校(のち花巻農学校となる)で教鞭をとったり、農業指導にあたったりしながら創作活動に勤しみました。川端康成は茨木中学を経て、第一高等学校、東京帝国大学文学部へ進学するという(a-1)のルートをたどっています。第一高等学校生時代に伊豆へ旅行した経験を、のちに『伊豆の踊子』で描きました。

ここで見た例は小説家の場合ですので、進路は比較的自由でしたが、官僚や教員になるには資格が必要です。資格を得るには指定の学校を卒業したり、試験に合格したりする必要があるため、進路選択がとても重要でした。試験において特定の学校を卒業すると部分的な試験免除などの優遇措置もあったからです。

たとえば、現在の国家公務員上級職や在朝法曹に相当する行政官僚や司法官僚になろうとするなら、(a-1)(a-2)を選択するのが一般的なルートです。また、中学校の教員になろうとする場合は、(a-3)を選択するのが一般的です。小学校の教員になろうとするならば(b-1)を選びます。

文部省が管轄する学校以外にも陸軍士官学校や海軍兵学校など士官を養成するための学校がありますので、進路選択の幅はさらに広がります。

このように戦前の学校制度が複雑であった理由は、先に見た「小学校令」のように、学校ごとに個別の勅令(天皇大権によって制定された法令)によって規定され、統一的な制度に基づいていなかったためです。戦後の学校制度ではこの複雑な学校制度を単純化する、つまり法令に基づく一元的な体系に整備しようとしたのです。 (5)(6)(7) はそれぞれ、中学校令、高等女学校令、高等学校令を公布した御署名原本の冒頭部分です。

上級学校に進学したのは…

複雑ながらも多様な学校の存在した戦前の学校制度ですが、当時、ほとんどの人々は義務教育課程の尋常小学校か、高等小学校が最終学歴(中途退学者も多く含みます)でした。中学や高等女学校など中等教育機関を卒業した人々はおよそ10人にひとりかふたり程度に過ぎません。そのわずかな卒業生のうち、さらに高等学校を卒業した人となると、ほんの一握りです。

時代の推移とともに高等学校の数も増加しますが、戦前を通して高等学校に進学・在籍した人の割合は同世代人口の1パーセントを越えることはありませんでした。また、基本的に上級学校への進学機会が閉ざされていたため、高等学校や大学で学んだ女性は極めて希なケースとして存在するのみです。

このように複雑でなおかつ男女差別構造を含んだ「複線型」教育制度は、戦後の新しい学校制度により、全員が同じルートをたどることを原則とする「単線型」教育制度へと変更され、義務教育の範囲も中等教育機関にまで広げられました。そして現在では、大学をはじめとする高等教育機関への進学率は81.5パーセント(2018年現在)となっています。

<参考文献>

  • 『学制百年史』(文部省、1972年)
  • 竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折(日本の近代12)』(中央公論新社、1999年)
  • 文部科学省 学校基本調査(指定統計第13号)

<まとめ>

今回、教育制度のテーマを取り上げましたが江戸時代と明治時代以降の初等教育制度の決定的な違いは躾(しつけ)の有無です。

江戸時代は自発的「学び」と「しつけ」、明治以降は「試験」と「資格」が特徴的です。

仕事に対する意識はどうだったでしょう。

使命感と社会的ステイタス(職業と収入)やヒエラルキー(富士山と八ヶ岳)への意識はどうでしょうか。

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