◎二代目多勢亀五郎(多勢金上)と横山大観
俊彦進藤
伊達三日月活性化協議会
即身仏は日本全国に二十数体があり、そのいずれもがそれぞれの地方で厚い信仰を受けている。特に山形県の庄内には6体の即身仏があり、置賜には2体ある。
ミイラを大別すると天然ミイラと人工ミイラとがあり、天然ミイラは偶然に乾燥によって出来たミイラで、常信庵のミイラはこれに属している。
人工ミイラにはエジプトの即身仏を始め、日本の大部分の即身仏もこれに属し、明海上人の即身仏もこれである。
日本での即身仏(人工ミイラ)は弥勒菩薩信仰からきており、弥勒菩薩がこの世に現れるのを待つために即身仏になろうとしたものと思われる。
明海上人は小中沢、鈴木嘉左衛門(現松本家)の長男に生まれ、15歳で眼病を患い18歳で盲目となった。22歳から戒行を始め、常人の及ばない木食、禁塩、荒行を行い、26歳で湯殿山の行者と海号を授けられ、28歳で御室仁和寺から上人号を許され、33歳には亀齢山、明寿院の山号、院号を賜り、39歳で印可を授けられた。
官職は納言同格の官位で乗輿を許された。紅色の衣を着て、銀色の袈裟をかけ水晶の数珠をつまぐり長柄の傘をさし、ご室殿直本寺となり、藩の行人派惣録所を命じられた。
又、人々の病を祈祷し、火災を鎮め橋を直し、困窮者を助ける等、人々の為に尽くしたが
病弱だった為44歳で亡くなった。
明海上人は信仰心厚く、荒行をやった行者であった。又、個人所有の即身仏はここだけである。
以上
昭和56年発刊「三沢郷土史」より抜粋
編集;代表 進藤俊彦