伊達政宗ブログ

◎「羽前エキストラ」

俊彦進藤

(大竹しのぶ主演の映画「野麦峠」の製糸工場ロケは高畠の長谷川製糸だった。野麦峠を地元の人は「野産み峠」と言ったという。飛騨から信州へ峠を超えて行った若い娘たち、飛騨へ戻るとき、ひとり列から抜けて笹薮に入り、そこで堕胎する娘が少なからずあったとか。しかし山形ではそうした「女工哀史」とは無縁であった。6割位は家からの通勤だった。給与は平均して年間200円。300〜400円もあった。1万倍すれば現在の金銭感覚におおよそ合うのではないか。優秀な工女3人も居ればたしかに蔵が建つ。それを保障したのが「羽前エキストラ」だった。)

・「製糸業」は「生死業」
《製糸は、カイコの吐いた繭糸を一本並べに引き揃えて目的の太さと長さの糸を作る縄ないにも似た単純な加工工程を中心に構成されており、生糸販売価格の8割が原料繭代で占められる利益の薄い産業であった。そのうえ季節産物の繭を一括購入する大金の購繭資金の殆どは借入金で賄われた。一方出来た生糸の価格は支 払った経費に関係なくその時々の相場で決められた。このように製糸業は「生死業」と言われるように先の見えない不安定要素を含んだ産業であった。そのため多くの先輩の倒産を目にし、自らも辛酸を舐めてきた諏訪の製糸家は、犠牲を払ってよい生糸を作り高値で買ってもらうより、屑物を少なくし て確実に大目の生糸を手にする「糸歩増収」の道を選んだ。その結果、糸口の求まる最低の煮加減に抑えた硬めの繭を熱い湯に浮かべて煮不足を補いながら糸を繰る「浮き繰り法」の中でも糸歩を最も多くする「諏訪式製糸法」と言われ全国に普及する独特の方法を案出するのであった。》
(『わが国の製糸業の変遷とこれからの生きる道』嶋崎昭典より 平成19年)
・置賜では最初から高品質生産を目指した。
《糸は細いほど高級です。普通糸(21デニール)が繭7、8個から1本の糸を取り出すのに対して、羽前エキストラ(14デニール)は繭5個から1本です。それが可能になったのは、繭を十分煮た上で糸を取り出す沈繰法(普通は浮繰法)によってです。多勢亀五郎が群馬の古老からその秘伝を承けてこの地域に広めたといわれます。東置賜15社で組織した多勢組がその役割を担いました。二流品(横糸用)で大量生産の信州諏訪方式に対して品質優先(ヨーロッパ向け縦糸用)の山形方式、その成果が「羽前エキストラ」の名を世界に轟かせることになりました。》
(世界に誇る優良生糸「羽前エキストラ」 『宮内よもやま歴史絵巻』より 平成16年)
・時代の先端をゆく「山形方式」
《明治の終わり日本生糸は量的には世界一となったが、品質は織物の「よこ糸」用の二流品であった。更なる輸出の増大には欧州糸が占有している「たて糸」分野への進出が必要であった。そのためには生糸を構成する繭糸本数(粒付け数)の管理を徹底して生糸の太さを揃え、繭を良く煮て生糸の抱合を良くする必要があっ た。軽め煮繭浮き繰りの諏訪式繰糸法ではその要望に応えるのは困難であった。政府は大正に入ると、「信州式浮き繰り法」から「たて糸」用生糸作りの、繭を良く煮熟し、繰られている繭だけが湯面に頭を出す、山形流の「沈繰(ちんそう)法」への技術転換を積極的に指導した。》
(『わが国の製糸業の変遷とこれからの生きる道』嶋崎昭典より 平成19年)

編集;代表 進藤俊彦

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