伊達政宗ブログ

◎製糸業隆盛の遺産-漆山多勢家を中心に-

俊彦進藤

2018/08/26
昭和55年のこと、当時「地域主義」の第一人者清成忠男法政大教授への講演依頼から始まった「いかにして『南陽衆』たりうるか?!」シンポジウム。そこで問題提起者のひとり石黒龍一郎さんの発言、《歴史を顧みますと、戦前この宮内地内は商工業の町といわれ、たしかに周囲10Km以上の範囲に商圏をもち、お得意様と町の商人の関係は親戚以上のものがありました。しかし、工業においては、製糸工場の経営者というのは、工業的感覚での経営というよりむしろ、商業的才覚での経営であったという事実があります。つまり、工場内の品質管理、品質の向上とか、生産工程の能率化という工業的なプロセスにそのエネルギーを使うよりは、何とか商売で当 てて、もうけてくれましょう、うまく相場の波にのりましょう、原料を安く買いましょうという方向へ精力を傾けてきました。その結果、純粋な工業的認識に乏しく、この地には工業技術の蓄積というものが、ごく一部を除いては無い、つまり技術的に成長しなかった。この風潮は今も尚、底流となって宮内の工業の中にあり、それが欠点のひとつではないかと考えられます。したがいまして、われわれ工業人は、戦前の商業主義的工業の範躊を脱し、より高度なものへの激しい挑戦の意欲をもった「工業する心」を確立してゆくことが第一の課題であります。商業主義的工業、準工業的姿勢ではどうしても装備は軽装になりがちであり、身軽でありがちです。われわれは「技術力」という有形の財産にも劣らない無形の財産を残すにはどうするか、深く考えるべきだと思われます。》
「羽前エキストラ」の再認識でその改変を迫られた。この地域にはむしろ、高品質志向の伝統が昔から伝統としてあったのではないか、ということだ。そしてそう思った方がずっといい。石黒さんは、信州の製糸業が、諏訪のセイコーエプソンのような先端工業への転換を評価した。しかし、「女工哀史」とは無縁のこの地域には「ないものねだり」だったのではないか。ないものねだりするより、実際にあったいい面を評価して伸ばした方がいい。「羽前エキストラ」がそういう目を開かせてくれた。                             以上
・昭和55年(1980)三商工会青年部共催シンポジウム「いかにして『南陽衆』たりうるか?!」報告書作成。
市内各所の写真を掲載、当時「置賜新聞」記者だった加藤茂氏と写真を撮って回る。そのとき初めて丸中邸へ。「必死で守ってきた」というトシさんの案内をうける。)                            
平成28年(2016)登録有形文化財(建造物)に登録(文科省文化審議会)より

編集;代表 進藤俊彦

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